学歴も実績もない、不登校だった私が何者かになりたいと思い続ける理由

人生考察

何者かになりたい。特別な何かを手に入れたい。

そう考えたこと、ありませんか?

私はあります。ある程度のことは、大抵できる。自分で言うのもなんですが、習熟速度も自信ある。

それでも、突き抜けた何かを持っていない。それだけで、自分って何がしたいのかなって思ってしまう。プロの野球選手は野球という競技に人生をかけている。画家は自分の作品に誇りを持っている。

私には、そういった熱くなれる何か、自分を特別だと思える何かがなかった。

満遍なく一通りこなせても、ある段階に辿り着いたとき、壁にぶち当たる。

才能とは、一生をかけて磨くものなのか、探すものなのか。

人は10代で満たされなかったものに執着する…らしいよ

私は昔から好奇心旺盛でたくさんの習い事をしてきた。

そろばん、公文、サッカー、卓球、ドッジボール、空手…etc

結果を出せなかったわけじゃない。才能がなかったわけじゃない。

それでも自分が特別な人ではないと、頂点を獲れる人ではないと、なんとなくわかっていた。

上達自体は早かった。問題は上達が停滞し、壁が目の前に現れたとき。

あぁ、また壁にぶつかったなぁ、天才ならこんなところで止まらないんだろうなって思ってしまって。

そうして数年したらやめて、その繰り返しだった。

そのうち、あらゆることに対して諦め癖がつき、見切りをつけるのがどんどん早くなっていった。

受験勉強においても、教員免許においても、自分ができる限界を見極めて、辛くなりそうだなとか、無理かもなって思った瞬間にモチベーションががくんと落ちてしまう。

人は10代で満たされなかったものに一生執着する、とよく聞く。

私の場合は、自分の人生全てを擲ってでも何かを成し遂げたい、そんな気持ちに執着しているような気がする。

漠然と、自分は本気を出してないだけ、本気でやればできる、そう考えている。

それは偏に今まで本気で何かに取り組んでこなかった私の人生、その解でもある。

要は本気で何かしたことがないから死ぬほど悔しい挫折を知らないのだ。

その場その場で本気で取り組んだことはある。でも、それ以前からもっと本気で練習していればとか、勉強していればなんてifの妄想をして、悔しさを感じることができない。

私はもっとやれるのに、と。

裏を返せば、やれば結果を出せたのにやらなかった、あるいは努力自体やれなかった人間なんです。

この事実に気づいたとき、やればできる、そんな考えはしなくなってました。

やれなかった自分が悪い、ならやれる人になるためにはどうするべきか、どう在るべきなのか。

積み重ねてきた人と、怠った人、その距離は果てしなく遠い。

それでもその差を埋めたいと願うなら、”世界の見方”を変えるしかない。

世界の見方

”世界の見方”を変えるには今まで当たり前だと感じてきたこと、日常を疑うことから始まる。

今の自分の生活を見直したり、勤務態度を見直すこと。本当に今の時間ぼーっとしてるだけでいいのかなって疑ってかかること。

不登校だったころの私は、このまま不登校でいいのかな?引きこもっててもいいのかな?そんな疑いから脱却することができた。そんな私はいつだって自分自身に問いかける。

このままでいいのか?もっとやれることがあるんじゃないか?

変えられるのはいつだって自分だけ。

自分の考え方、行動、変えるのはいつだって自分の意志だ。

その積み重ねの先に、成りたかった自分がいると思う。

もしかしたら既に

何者かになりたい、特別な人になりたい、そうは言ったけど…。

プロのスポーツ選手も、一流のアーティストも多分、普通の人なんだよね。

技能的には、普通とは一線を画してるんだけど。

心理的な側面で考えたとき、私との違いって自分が好きなことをして、それで周りの人間を満たせてるかどうか、価値を与えられてるかどうかだと思う。

でもそう考えると、私は決して自分を無価値だとは思わないし、好きでいてくれる人とか支えてくれる人がいるから、その人たちに価値を与える、満たすことが多少なりできてるんじゃないかなって思う。

もっといえば、このブログを通して私の考えに少しでも共感してくれて、その人が一歩踏み出す勇気になれたら最高だなって思う。やっててよかったなって思う。

私は普通の人かもしれないけど、何者かになりたいなって思うし、特別でありたいって感じる。

でも、もしかしたら誰かにとっては特別で、誰かに価値を与えることができる何者かになれてたのかもなぁって、最近はそう考えてる。

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